長篠合戦の虚実(1) 歴史を作ってしまった小説

近年、長篠の戦いの評価は大きく変化しています。
以前の長篠の戦いについての一般的な解説は、織田信長が「鉄砲三段撃ち」を用いて「武田騎馬隊」を打ち破り、その後の戦術に革命をもたらした、というものでした。しかし、90年代初頭あたりから、鉄砲三段撃ちも武田騎馬隊もその存在が疑問視されはじめ、現在ではほぼ否定されるに至っています。

今回の内容は、長篠の戦いがなぜこのように誤解された形で理解され、近年に至るまでそれが信じられていたかについての解説です。
まず、三段撃ちを否定する根拠として、(1)資料面での問題、(2)実践面における問題を述べます。それを踏まえ、(3)武田軍の本当の敗因について解説します。
今回は、三段撃ちの存在に信憑性が少ないことを、三段撃ちについて記した資料の面から解説します。

歴史と歴史小説

歴史好きの人には、三国志には「正史」と「演義」の二種類があることは常識だと思います。前者は同時代の人物である陳寿によって書かれた歴史書であり、後者は後世に成立したフィクションです。よって、まともな研究者は「演義」に書かれていることを歴史的事実とはみなしません。
実は、織田信長の伝記についても、これと全く同じ構図の2冊の書物があります。「正史」に対応するのが太田牛一の記した「信長記」であり、「演義」に対応するのが小瀬甫庵の記した「信長記」です。タイトルが同じなのはややこしいので、現在では前者は「信長公記」と呼ばれ、後者は「甫庵信長記」または単に「信長記」と呼ばれます。
太田牛一は信長の家臣であり、多くの戦場を信長とともに戦いました。年齢は信長より7つ上でしたが、非常に長生きしたため、亡くなったのは江戸時代になってからでした。彼はいわゆる「メモ魔」で、出来事を細大漏らさずメモにしており、それを編集したのが「信長公記」です。そのため、その内容は正確であるとみなされています。
一方、小瀬甫庵は年代的にはずっと下で、本能寺の変が起こった頃にはまだ10代後半でした。また、甫庵の本業は医者で、牛一とは異なり、実際に戦場に出たことはほとんどなかったようです。
甫庵は、「信長公記」を下敷きにして自身の「信長記」を著したことを明記しています。彼はディティールの多くをフィクションで補い、非常に優れた読み物を作り上げました。「甫庵信長記」が広く受け入れられた理由について、「信長の戦争」(藤本正行著)の記述を引用します。「『甫庵信長記』では登場人物は矛盾のない行動をとり、合戦は矛盾なく推移するからである。(中略)つまり、勝者は常に勝つべくして勝ち、敗者は敗れるべくして敗れるのである。読者にとって、これほど理解しやすいことはない。」要するに、「信長記」は歴史書ではなく歴史小説であり、当然読んで面白いのは後者だということです。
話を長篠の戦いに戻します。「鉄砲三段撃ち」が登場するのは、「甫庵信長記」の方であり、「信長公記」にはそのような記述は一切見られません。また、同時代の他の資料にも三段撃ちの記述は見られず、長篠の戦いを描いた絵屏風にも三段撃ちは描写されていません。
前述のように、現在では、「信長公記」は非常に資料性が高く、「信長記」は逆に非常に低いと評価されています。そのため、一次情報源が「信長記」であるエピソードは、たとえ一般的によく知られた内容であっても、フィクションである可能性が非常に高いと考えられています。その中には長篠の鉄砲三段撃ち、桶狭間の迂回奇襲、墨俣の一夜城などが含まれますが、いずれも創作であるという説が有力です。

では、なぜ以前はこのようなフィクションが「歴史」として認識されていたのでしょうか。
長篠の鉄砲三段撃ちの「歴史化」のフェーズは二段階に分かれています。
第一段階は、既に述べましたが、江戸時代における両者の知名度の違いです。「信長公記」は、現存している伝本は40部ほどしかありません。しかし、「甫庵信長記」は一般に出版されて多く読まれ、また、それを題材とした多くの二次作品(総見記など)や講談が生まれたため、その記述が「常識」として人口に膾炙しました。
第二段階は、明治期に入ってからの出来事です。日本陸軍は、教育のために日本での戦争の記録を「日本戦史」としてまとめました。その中で、長篠の戦いは「鉄砲三段撃ち」vs「武田騎馬隊」の勝負であり、戦術の一大転換点であったと説明されています。これが、「鉄砲三段撃ち」を「史実」にしてしまう決定打となりました。

余談ですが、歴史小説が歴史として扱われるようになる例はその他にも多くあります。日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」、新選組を描いた子母沢寛新選組三部作などが挙げられます。いずれも多くの記述は史実に基づいていますが、その中に巧妙にフィクションを織り交ぜてあり、それを見分けるのは困難です。そのため、それらの中の創作部分が「常識」として広く知られるようになっています。本当の歴史を知るためには、そのような常識を疑う必要があり、それはなかなか困難な作業となります。