長篠合戦の虚実(4) 織田軍の勝因

前述したとおり、武田軍の敗因は、野戦築城を行っている上に、兵力が倍以上の織田軍との正面戦闘を強行してしまったことにありました。このように、武田軍の敗退は当然の結果でしたが、重要なのはその決戦に至るまでの経緯です。
以下では、戦闘の推移を概説し、織田軍の勝因、武田軍の敗因について考察します。

長篠の戦いの戦闘経過

長篠の戦いは、武田軍の長篠城に対する攻城戦から始まりました。
長篠城の城主は長篠の戦いの2年前に武田家を離反した奥平貞昌で、守備兵約500人、鉄砲約200挺が配備されていました。長篠城は2本の川の合流点の崖上に築かれた「後ろ堅固」と呼ばれる種類の城で、攻め口は地続きの北側のみでした。その北側には三重の堀が設けられ、非常に強固な防衛力を持っていました。
武田軍は天正3年(1575年)5月11日に攻撃を開始しました。武田軍は周囲に複数の砦を築き、腰を据えてこの攻城戦に望みました。一方、織田・徳川連合軍は長篠城からの救援要請に応え、戦場へ進撃を開始しました。
織田軍は18日、長篠城から約5kmほど離れた設楽原*1で進撃を停止、陣地構築を開始しました。武田軍は長篠城への強攻を中止、約2千の兵による包囲戦術に切り替え、主力を設楽原方面に向かわせました。これにより、織田軍と武田軍は、約2kmの距離を隔てて向かい合うことになりました。なお、このとき、織田軍ほどの規模ではありませんが、武田軍も野戦築城を行っていたことが判明しています。
この時点で、長篠城は食糧庫を占拠されており、陥落は時間の問題でした。武田軍の意図は、両軍がそのまま睨み合うことで戦況を膠着させ、長篠城が降伏するのを待つことにあったと思われます。
しかし、織田軍はその意図を挫きます。織田軍は、20日夜半、酒井忠次が率いる別働隊を迂回させ、長篠城攻囲軍を急襲しました。このときの別働隊の戦力は約4000人、鉄砲約500挺という大規模なものでした。約2千名の長篠城攻囲軍はこの戦闘で敗北し、長篠城の攻囲は解かれることとなりました。
この時点で、武田軍が長篠城を占領できる見込みはなくなりました。また、武田軍は前方の織田軍本体と後方の別働隊に挟撃される状態となってしまいました。織田軍が浅井長政の裏切りにより包囲され、命からがら脱出した「金ケ崎の退き口」に見られるように、多くの場合、包囲された状態からの退却は軍全体の壊滅につながります。この状況で武田軍が勝利するためには、正面の織田軍主力を打ち破る他になくなりました*2
21日午前8時、武田軍は織田軍陣地への攻撃を開始しました。武田軍はしゃにむに防御陣地に殺到し、鉄砲にバタバタと打ち倒されて壊滅したというイメージが一般的ですが、実際の戦闘は数時間に渡って行われました。その際、武田軍は長篠攻城戦に使用した竹束などを流用し、身を隠しながら進撃したと思われます。
最終的に、武田軍の攻撃は失敗に終わりました。織田軍は追撃戦を開始、武田軍は潰走しました。武田軍の戦死者の大部分は、追撃戦の際の損害だと推定されています。なお、武田軍の戦死者の数にについては諸説ありますが、現実的なのは1000人程度だと思われます。1万5千人中1千人というのは少なく感じますが、負傷者は戦死者の5倍以上、場合によっては10倍以上になるのが一般的であり、退却できた人数の半分以上が負傷していても不自然ではないほどの大損害でした。

織田軍の勝因と設楽原の戦いの戦術的新規性

織田軍は、まず兵力で圧倒し、さらにその優位を野戦築城で確固たるものにし、必勝の形を作り上げました。さらに、別働隊の派遣により、武田軍を決戦に誘い出すことに成功しました。織田軍の戦術はまさに「孫子の兵法」を体現するものだったと言えます。
長篠の戦いは、以降の日本の戦術に革命を与えたと説明されることがあります。しかし、上述のように、長篠で織田軍の勝因は、鉄砲をどのように使ったかなどという戦術レベルのものではなく、必勝の体勢を作り、確実な勝利を得たという戦略レベルのものでした。「孫子の兵法」自体には新規性はありませんが、それをこのように見事に実践できた例は稀有のものと言えます。
もちろん、「大規模な軍隊による野戦築城」という概念は、日本の戦史においては革新的なものでした。その後、大規模な軍隊による野戦築城は、小牧の戦いなどでも再現されることになります。そのような意味では、その後の戦史に影響を与えたと言えます。
しかし、海外を含めれた新規性については、ほとんどないと言ってもよいでしょう。
もし長篠で鉄砲の一斉交代射撃が行われていたとすれば、それは世界初の例となっていたでしょうが、それはフィクションである可能性が高いということを解説してきました。一方、大規模な軍隊による野戦築城はヨーロッパではずっと以前から一般的な戦術でした。ゲームなどで受ける印象より、現実の飛び道具は非常に射程距離が短いものです。鉄砲の有効距離はせいぜい数十mで、逆に戦場の横幅は数kmに及びました(設楽原では約2km)。飛び道具が継続的に有効な打撃を与えるためには、その有効な数十mの距離に敵軍を長時間足止めする必要があり、そのためには防御陣地が非常に有効でした。このように、鉄砲や弓は防御的な兵器であり、それを攻撃的な兵器に進歩させたのは、以前に述べたマウリッツやグスタフ・アドルフであり、彼らは間違いなく革新的でした。一方、信長の戦術は、鉄砲を防御的に用いるという、以前からの戦術を実現したに過ぎませんでした。

参考文献

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)

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長篠・設楽原合戦の真実―甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか

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鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと

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合戦の日本地図 (文春新書)

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火器の誕生とヨーロッパの戦争

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戦略戦術兵器事典 (3) (歴史群像グラフィック戦史シリーズ)

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戦国の堅城―築城から読み解く戦略と戦術 (歴史群像シリーズ)

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*1:信長公記』『甫庵信長記』ともに主決戦場の名前は「あるみ原(有海原)」としており、「設楽原」と記述されるのは江戸時代中期の『総見記』からであるようです。現代の地名は「設楽原」なので、ここではそのように記述しています。

*2:この出来事に関しては、資料間に時系列の相違が見られます。『信長公記』では、別働隊が勝利した時刻を21日午前8時ごろとしており、他の一次資料は20日の夜中に決着が付いていたとしています。設楽原での戦闘が開始されたのは21日午前6時で一貫しているので、前者を信じるならば武田軍は別働隊の戦闘の決着が付く以前に主力決戦を決意していたと解釈でき、後者を信じるなら別働隊の戦闘の結果やむなく主力決戦を行ったと解釈できます。いずれにしても武田軍は織田軍への攻撃を強行してしまったわけで、入念に防備された陣地への攻撃を誘発させるという織田軍の目論見どおりに戦闘は推移しました。