長篠合戦の虚実(3) 交代射撃の必要性と実現可能性‐設楽原における野戦築城

長篠の戦いの主決戦場である設楽原の戦いの帰趨を制した要因は、交代射撃ではなく野戦築城でした。
設楽原では、絵屏風に見られる"馬防柵"だけが築かれた訳ではありません。柵を隔てただけでは、両軍がお互い柵を挟んで向き合うだけで、防御効果はほとんどありません。実際には、遺構の発掘などにより、空堀→柵→土塁という本格的な野戦築城が行われていたことが明らかになっています。織田軍は、安全な土塁の向こう側から、空堀をよじ登ったり、柵を倒そうとする武田軍を一方的に攻撃できました。『長篠・設楽原合戦の真実―甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか』(名和弓雄著)によれば、土塁には木枠で補強された銃眼が設けられていた可能性もあるようです。
以下では、このような防御戦では一斉交代射撃が行う必然性が薄く、逆に各個射撃が行われた可能性が高いことと、当時の織田軍の状況から、一斉交代射撃を実現できる可能性が極めて低いことを解説します。

野戦築城と交代射撃

前回述べたとおり、一斉交代射撃を行う理由は、単位距離あたりの火力密度を増すと同時に、陣形を同じ形でキープすることにありました。しかし、設楽原の場合のような防御戦闘では、自然に防衛線(この場合は土塁)に沿って兵が並ぶので、陣形を維持する努力は必要なくなります。
また、戦闘正面の長さと鉄砲隊の兵数を考えても、数人単位の交代射撃は現実的です。設楽原の戦闘正面は2km以下で、そこに三千人の鉄砲隊*1が一列に並ぶと、わずか66cmの間隔しかありません。ぎりぎり一人ずつが並べる間隔ではありますが、実際には弓兵・槍兵がいたこと、鉄砲隊の配備数が全線に渡って均一であるとは考えにくいことなどから、全鉄砲隊が並んで射撃するのは空間的に難しいと考えられます。そのような状況では、一人が射撃しては少し後ろに下がって次弾を装填し、その間に同じ場所に装填を完了した別の兵士が立って射撃する、というのは当然の戦法であり、特に訓示などしなくとも兵士たちはこのように動くでしょう。
通常、攻城戦において、攻撃側は防御側の数倍の戦力を必要とします。しかし、設楽原では、攻撃側の武田軍は防御側の織田軍の半分以下の戦力しか保有していませんでした。このような状況では、武田軍に勝利の可能性はほとんどありません。実際の戦闘では防御線は一箇所も破られませんでしたが、仮に一箇所の突破に成功したとしても、最終的に兵力の圧倒する織田軍が押し返す展開になったでしょう。

織田軍における一斉交代射撃の実現性

前述したとおり、野戦築城が行われていた設楽原では、一斉交代射撃を行う必然性はほとんどありません。
さらに、「千挺ずつの三段撃ち」の実現性が薄いことを、いくつかの事実から補強します。

  • 織田軍の訓練度について

前回マウリッツの戦術の項でも述べましたが、一斉交代射撃は非常に高い訓練度を必要としました。それに対し、織田軍の鉄砲隊の多くは、は各家臣から一時的に供出された兵士達から構成されていました(諸手抜き鉄砲隊)。進撃の速度や戦闘までの日数を考えると、統一訓練を施している時間はほとんどありませんでした。それまでそのような戦法を行ったことがない、すなわちノウハウがない状態で短期間の訓練に成功したとは思えません。

  • 戦場の広さと鉄砲隊の編成について

「千挺ずつの三段撃ち」を行ったということは、全鉄砲隊を一つに集めたということを意味しているのでしょうが、その全鉄砲隊が全戦線に広がっている場合、一箇所に集中している場合の双方とも非現実的です。
もし、全鉄砲隊が全戦線に広がっているなら、設楽原の戦場は幅2kmあることから、射撃命令は戦場の両端の兵士までは届かないでしょう。一方、全鉄砲隊が一箇所にまとまっていた場合、その正面に敵が来なければ全ての鉄砲が無駄になってしまいます。移動するにしても、2kmの幅の戦場に3万人もの兵士がひしめいている中、スムーズに横方向に移動できるとは考えられません。
ヨーロッパの同時代の戦闘でも、全銃兵を一部隊に集めて集中運用した例は(おそらく)ありません。むしろ、巨大なテルシオからマウリッツ型、グスタフ・アドルフ型と発展するにつれ、一大隊の構成人数は減っていき、柔軟性と機動性を高める努力がなされていきました。

織田軍の勝因

以上のように、「千挺ずつの三段撃ち」は必然性に欠けるのみならず、実現性にも乏しい戦術です。やはり、この記述は小瀬甫庵の創作と考えられます。
武田軍の敗北の理由は、野戦築城を行っている倍以上の敵軍への攻撃を強行したことにあります。信長軍の戦術が巧みだったわけではなく、当然の結果でした。では、なぜ武田軍はそのような無謀な戦闘をおこなったのでしょうか?次回は、長篠の戦いにおける、織田軍の真の勝因について考察します。

*1:織田軍の鉄砲隊が何人だったかについては様々な意見がありますが、決定的なものはありません。ここでは、兵士数と鉄砲の装備率から妥当な三千挺としておきました。参考リンク:"Wikipedia:長篠の戦い"